水曜の夜、佳奈さんは二つの画面を交互に見ていました。
一つは、会社から届いた「iDeCoの制度改正」という案内。もう一つは、3年後に住み替えたい街の中古マンションです。
37歳。手取りは月29万円。NISAでは毎月3万円を積み立てています。検索すると「iDeCoは節税になる」「NISAと併用した方がいい」という言葉が並び、老後のためなら月2万円くらい追加した方がいい気がしてきました。
佳奈さん「NISAだけでは足りませんか。iDeCoも始めないと、老後に間に合わない気がして」
ところが、申込画面へ進もうとした指が止まりました。預貯金と運用資産を合わせると720万円ありますが、すぐ使える普通預金は94万円。引っ越し、家具、契約費用。3年後にいくら必要なのかは、まだ計算していません。

二つを比べる前に、いつ使うお金なのかを分けます。老後まで引き出さない資金なら税制と受け取り時期を、数年以内に使う可能性があるなら換金しやすさと値下がり時の余裕を先に確認しました。

表を見る前に、資金を使う時期を「老後まで動かさない」「数年以内に使うかもしれない」に分けます。目的が違うお金を同じ利回りだけで比べないことが、選択を急がないコツです。
| 使う時期 | 佳奈さんが考えるお金 | 置き場所の例 |
|---|---|---|
| 今〜1年 | 生活費、急な通院、家電の故障 | すぐ使える預金など |
| 1〜5年 | 住み替え、家具、学び直し | 期限に合わせて値動きを抑えた資金 |
| 60歳以降 | 老後の生活費 | NISA、iDeCo、預金などを目的別に検討 |
編集長「NISAも老後用、iDeCoも老後用。二つに分ければいいのでは?」
橘「NISAは売却できますが、必要な日に値下がりしているかもしれません。近い将来に金額と期限が決まっている支出を、投資だけに預けるのは別の判断です」
投資している資産と、今使える現金は、合計額だけでは比べられません。佳奈さんはまず、制度を選ぶ前に「いつ使うお金か」を分けることにしました。
iDeCoとNISAは、出口の違いが大きい
| 確認項目 | iDeCo | NISA |
|---|---|---|
| 制度の役割 | 老後資金をつくる私的年金 | 幅広い目的に使える非課税投資制度 |
| 引き出し | 原則60歳まで引き出せない | 保有商品を売却できる |
| 積立・投資時 | 本人が拠出した掛金は全額所得控除の対象 | 所得控除はない |
| 運用中 | 制度内の運用益は非課税 | 制度内の運用益は非課税 |
| 受取時 | 受取方法に応じて控除の対象になり得る | 制度内の売却益等は非課税 |
| 主な費用 | 加入、掛金納付、資産管理、商品等の費用 | 商品、売買、為替等の費用が生じる場合がある |
「税金が得か」だけを見ると、掛金が所得控除になるiDeCoが目立ちます。しかし、所得控除の効果は本人の課税所得や掛金で変わります。課税所得がなければ、掛金の所得控除による税負担軽減は受けられません。
そしてiDeCoは、原則として60歳まで引き出せません。税負担が軽くなる可能性と、途中で使えない制約は、同じ画面で考える必要があります。
さらに、iDeCoで積み立てられる上限は、働き方や勤務先の年金制度で異なります。佳奈さんのように会社員なら、「会社で企業型DCに入っているか」「会社の規約で本人も拠出できるか」「人事の案内はいつの版か」を先に確認します。口座を開いてから上限に気づくより、給与明細の近くにある制度資料を一枚読む方が、ずっと早く答えに近づきます。
月2万円を足すと、3年後はどうなる?
佳奈さんの毎月の支出は、家賃8万4,000円を含めて約23万7,000円。手取り29万円との差は5万3,000円です。
| 毎月の設定 | 預金へ残せる概算 | 36か月の単純合計 |
|---|---|---|
| NISA 3万円 | 2万3,000円 | 82万8,000円 |
| NISA 3万円+iDeCo 2万円 | 3,000円 | 10万8,000円 |
| NISA 2万円、iDeCoは保留 | 3万3,000円 | 118万8,000円 |
これは、収入も支出も36か月変わらず、臨時支出もない単純なモデルです。運用益、税負担軽減、物価変動、引っ越し代は入れていません。未来の資産額を当てる試算ではなく、毎月いくらが途中で使えない場所へ移るかを見る表です。
佳奈さん「iDeCoを足すと、3年で72万円も、住み替えに使えるお金が減るんですね」
橘「iDeCoの資産が消えるわけではありません。老後用へ移ります。ただ、住み替えには使えなくなります」
佳奈さんは「節税になるなら、始めないともったいない」と考えていました。けれど、税負担軽減のために住み替え資金が不足し、必要なときに借入れを増やすなら、制度だけを見て得とは言えません。

住み替え費用は「物件代」だけでは終わらない

その夜、佳奈さんは物件サイトを閉じ、スマートフォンのメモに「住み替え」とだけ書きました。頭金や家賃だけを思い浮かべていたけれど、引っ越しは鍵を受け取る日までに小さな支払いが何度も来ます。
- 賃貸なら、初月家賃、敷金・礼金、仲介料、火災保険、保証会社の費用
- 購入なら、頭金のほかに諸費用、引っ越し、家具・家電、当面の予備費
- どちらでも、今の住まいと新居の家賃や光熱費が重なる月、退去時の修繕費
金額を一度で正確に当てる必要はありません。佳奈さんは、物件を二つ選び、見積もりを取る前の仮置きとして「低め・真ん中・多め」の三段階を書き出すことにしました。その差額を、投資口座の残高ではなく、指定日までに普通預金へ残せる額で埋められるかを見るためです。
36か月後、住み替え用の現金はいくら残る?
佳奈さんの数字を入れています。自分の予定額に変えて、積立を増やす前の余力を見てください。
この計算は、投資の将来額や税金の得を判定するものではありません。毎月の余りからNISAとiDeCoを差し引き、36か月分を今の預金へ足すだけです。それでも「iDeCoを月2万円にしたら、住み替え用の現金がどこまで減るか」は、口座画面よりはっきり見えてきます。
NISAなら、いつでも安心して使える?
NISA口座の商品は売却できます。ただし、預金のように元本が保証されるわけではありません。必要な時期に評価額が下がっていれば、損失を確定して売ることになります。
2024年からのNISAは、つみたて投資枠が年間120万円、成長投資枠が年間240万円。非課税保有限度額は合計1,800万円で、成長投資枠として使えるのはそのうち1,200万円までです。非課税保有期間は無期限です。
商品を売却すると、取得額分の非課税保有限度額を翌年以降に再利用できます。ただし、その年の年間投資枠が増えるわけではありません。また、NISA口座で生じた損失は、課税口座の利益や配当との損益通算や繰越控除ができません。
佳奈さんの場合、NISAを「住み替え費用の予備」と呼ぶのは少し危うい状態でした。売れることと、必要な日に予定額を用意できることは違います。住み替えの日が近づくほど、投資に置いたままの金額ではなく、現金側へ移し終えた金額で予定を確認します。
編集長「売れるけれど、必要な金額で売れるとは限らない」
佳奈さん「住み替え資金は、NISAの残高に数えすぎない方がよさそうですね」
佳奈さんに足りなかった三つの数字

「NISAかiDeCoか」を決める前に、佳奈さんには未確認の数字が三つありました。
- 住み替えに必要な現金:初期費用、引っ越し、家具、家賃の重複を含める
- 勤務先の企業年金:企業型DCや確定給付企業年金の有無、本人の拠出条件を確認する
- 本人の公的年金見込額:平均額ではなく、ねんきんネット等で加入記録を確認する
確認先も、難しく考えなくて大丈夫です。住み替え費用は不動産会社と引っ越し会社へ「契約から入居までに現金でいくら要るか」と聞く。企業年金は人事の制度資料か給与担当へ「自分はiDeCoに入れるか、いくらまでか」と尋ねる。年金見込額はねんきんネットの加入記録を開く。三つとも、申し込みボタンを押す前にできる確認です。
佳奈さんは、翌朝の通勤電車で人事ポータルを開き、企業型DCの案内を保存しました。まだ答えは出ていません。でも、ネットの「おすすめ額」ではなく自分の上限と条件を読むことができました。その夜には不動産会社へ内見希望を送り、初期費用の概算も聞く予定を立てます。老後のことを考える時間と、三年後の暮らしを決める時間は、同じ家計の中でつながっています。
所得控除の効果も、金融機関の広告にある最大例ではなく、自分の所得と掛金で確かめます。受取時には受取方法、時期、退職金等との関係で税の扱いが変わり得ます。
「どっちが得?」を、今週の順番に変える
佳奈さんは、その場でiDeCoへ申し込みませんでした。NISAもやめません。まず毎月3万円を2万円へ変更し、差額を住み替え資金として分けます。
これは「NISAは減らすべき」という答えではありません。佳奈さんにとっては、三年後という期限と94万円という現金残高が先にあったためです。費用の見積もりが出て、現金側の予定額を超えたら、NISAを元へ戻すか、iDeCoの掛金を検討するかを改めて選べます。積立額は、始めた日よりも暮らしが変わった日に見直してよいものです。
そして、カレンダーへ三つの予定を入れました。
- 土曜:住み替え費用を80万円、100万円、120万円で仮置きする
- 月曜:会社へ企業年金の制度と本人の拠出条件を確認する
- 次の日曜:ねんきんネットを開き、老後用に回せる月額を考え直す
佳奈さん「iDeCoを始めないと決めたわけではないんですね」
橘「はい。始める前に、60歳まで使わないと言える金額を決めるだけです」
iDeCoとNISAは併用できます。けれど、両方の枠を埋めることが人生の目標ではありません。今の暮らし、数年以内の予定、老後。それぞれへ残すお金を決めたあとで、制度を役割分担させます。
相談先を使うなら、最初の質問は「どの商品が一番いいですか」ではなく、「私の三年後の予定を残しても、毎月いくらなら60歳まで動かさないと言えますか」が向いています。相談料、扱う商品の範囲、販売手数料の有無、相談後の連絡方法も、その場で確認しておくと、急かされずに持ち帰れます。
口座を比べる前のチェック
- 生活費や急な支出に使える現金を分けた
- 60歳より前に使う予定と金額を書いた
- 勤務先の企業年金と自分の加入区分を確認した
- iDeCoの所得控除を自分の所得で確認した
- 商品の値動き、信託報酬、売買・為替等の費用を確認した
- iDeCoの加入・掛金納付・資産管理等の手数料を確認した
- 積立額を増やしても、今の生活費や予定資金が不足しない
ここまで整理しても自分で判断しにくい場合は、金融機関や相談先を比較します。相談料、相談できる範囲、取扱商品の範囲、販売手数料等の受領、個人情報の送信先、相談後の連絡停止方法を確認し、広告掲載の有無だけで順位を決めないことが大切です。
制度を比べたら、住み替え予定も同じ表に入れる
NISAとiDeCoの違いを確認したら、使う時期、流動性、毎月の住居費を並べて、無理なく続けられる金額を考えます。資産形成と家計設計の本は、税制や制度が変わる可能性を踏まえて発行日を確認し、自分の前提を整理する補助資料として利用してください。
