火曜の19時16分。森川直美さん(仮)は、スーパーの駐車場で母からの電話を取った。
「病院の緊急連絡先、あなたの番号でいいわよね」。先週、母は通院日を一日間違えた。薬の残りも、処方された日数と合わなかった。けれど電話の声はいつもどおりで、夕食用の鯖が安かった話をしている。
直美さんは番号を伝え、土曜日の予定へ「母の買い物」「薬局」「病院」を足した。帰宅して買った物を冷蔵庫へ入れようとしたとき、扉に磁石で留めた自分の緊急連絡カードが目に入った。
そこにも、母の携帯番号が書いてあった。
直美さんは52歳。食品会社の経理で働き、住宅ローンはあと9年残っている。母を支える側だと思っていたが、その夜、自分も「誰か一人に全部を頼めばよい人」ではないと気づいた。
直美さん「母をこちらへ呼んだ方がいいんでしょうか。仕事も、続けられるか分かりません」
橘「お母さまは、いま何に困っていると言っていますか」
直美さん「困っているとは言いません。だから余計に、私が決めないと」
橘「決める前に、お母さまの今週と、直美さん自身の将来を二枚に分けましょう」
緊急連絡先は、介護を全部する人ではない

病院や住まいの書類にある一行の「緊急連絡先」を見ると、その人が入院、支払い、鍵、郵便、医療の希望まで引き受けるように感じる。実際には、一人の名前だけでは生活は動かない。
最初の電話
連絡を受け、いま起きていることを聞く。いつでも駆けつける約束や、医療判断を代わりに行うこととは別。
家へ入る
鍵の場所を知っているだけでなく、誰が、どんな時に、本人の了承のもとで入れるかを決める。
暮らしを止めない
冷蔵庫、郵便、ゴミ、ペット、洗濯。短い入院でも発生する作業を一人分ずつ分ける。
支払いを続ける
家賃やローン、管理費、公共料金。口座番号を配るのではなく、何がどこから落ちるかを本人が整理する。
希望を伝える
どこで暮らしたいか、何が怖いか、誰へ知らせたいか。一度書いた結論ではなく、更新する本人の言葉。
連絡を受ける人は友人でも親族でもよいが、名前を勝手に書かない。頼む範囲を伝え、了承を得る。鍵を預ける役、日常作業を行うサービス、支払いを把握する仕組みは別でもよい。一人に「何かあったら全部お願い」と渡さないことが、ひとりの介護準備の始まりになる。
母の変化を、「できない人」という結論にしない

直美さんはノートの左に「通院日を間違えた」「薬が二錠多い」「重い買い物は頼まれた」と書いた。右には自分の解釈を置いた。「認知症かもしれない」「一人暮らしは無理かもしれない」「うちへ呼ぶべきかもしれない」。二つの列は、同じ事実ではなかった。
見たこと・本人が言ったこと
- 火曜の予約を水曜と思っていた
- 薬袋の予定より二錠残っていた
- 浴槽をまたぐ日は少し怖いと言った
- 近所のパン店へは一人で出かけている
まだ決めていないこと
- 原因や診断名
- どの介護サービスが必要か
- 今の家を離れるか
- 直美さんが仕事を変えるか
本人が困る場面と、家族が心配な場面も同じではない。直美さんが薬の数を気にしていても、母が一番怖いのは入浴かもしれない。買い物を全部代行すると、母が楽しみにしているパン店まで取り上げるかもしれない。支援は「できないこと一覧」ではなく、続けたい生活と危ない場面を一緒に置いて考える。
相談先は、住んでいる住所で二つ探す
高齢者の生活や介護について最初の入口になる地域包括支援センターは、担当区域が住所で分かれる。直美さんの母と直美さんは別の市に住んでいるため、母の今週を相談する窓口と、自分の将来のために保存する窓口は同じではない。
母の住所で探す
いま見えている変化、本人の希望、利用できる地域の支援、要介護認定を含む次の相談先を聞く。
自分の住所で探す
将来の連絡、住まい、地域の見守りや生活支援を調べる入口として、元気なうちに名称と受付時間を保存する。

厚生労働省の介護サービス情報公表システムでは、地域包括支援センターや介護事業所等を地域から探せる。検索結果を見て終わらず、担当区域、相談できる内容、受付時間、電話以外の方法を確認する。急な体調変化があるときは、地域相談の営業時間を待たず、医療や救急へつなぐ。
「介護保険を使いたい」と商品名を決めてから相談する必要はない。最近起きた具体的なこと、本人が続けたい生活、家族ができる時間、できない時間を伝える。要介護・要支援認定が必要な場合も、申請だけで結論が出るのではなく、調査や審査を経て、その後の計画とサービス選びへ進む。
仕事を辞める判断は、母の支援計画と分ける
直美さんは土曜の通院へ付き添うため、有給休暇の残りを数えた。そのまま退職金の見込額を検索し、「52歳 介護離職」と入力する。母の予定が増えるほど、自分が働かない時間を増やすしかないと思った。
直美さん「母の予定は、会社の都合では動きません」
橘「だから、辞める前に使える時間を全部見ます。半日、時間単位、残業をしない日、相談のためにまとめて休む日。会社の規程は開きましたか」
直美さん「就業規則は、産休のページしか読んだことがありません」
厚生労働省は介護休業を、本人が一人で介護し続ける期間ではなく、介護サービスや両立支援制度を組み合わせ、仕事と介護を両立できる体制を整える準備期間として案内している。
休業だけでなく、介護休暇、勤務時間の措置、所定外・時間外・深夜業の制限など、場面の異なる制度がある。対象となる家族や本人の雇用条件、会社の手続きによって使い方が変わるため、ネットの体験談だけで自分を対象外にしない。人事へ伝える前に、相談窓口、申出期限、必要書類、給与・給付への影響を自社の規程と公式案内で確認する。
短い用事
電話、薬局、ケアマネジャー等との打合せ。勤務中に必要な時間と連絡窓口を洗い出す。
通院や手続き
半日・一日単位で必要な場面。介護休暇、有給休暇等の扱いを比べる。
体制を作る期間
認定、サービス調整、退院準備など。介護休業を自分が全介護する期間にしない。
続ける働き方
残業、始業終業、深夜勤務、在宅勤務など、継続時に動かしたい条件を相談する。
母の財布と、自分の老後資金を混ぜない
直美さんは、母のタクシー代や日用品を自分のカードで払うことが増えていた。数千円なので精算せず、「これくらいは」とノートにも書かなかった。しかし毎週続けば、自分の住宅ローンと老後資金へ静かに重なる。
親を助けないという話ではない。母自身の収入・預貯金・保険・介護費、直美さんが立て替えた額、直美さんの移動費と休業による収入変化を別の列にする。誰が払うかを決める前に、誰の生活に発生した支出かを残す。
母の収入や資産から支払うもの、家族が補うもの、制度を確認するものを分ける。
レシートだけでなく、往復時間と減った勤務時間も記録する。
介護のために消してよいものと決めつけず、守りたい生活として同じ表に残す。
親の今週と、自分の将来を二枚にする
下の地図には個人名、住所、電話番号、病名、口座番号を入力しない。「置き場所があるか」「本人へ聞いたか」「頼む相手の了承を得たか」だけを、親と自分で別々に確認する。結果はこの画面内だけで作り、保存・送信しない。
介護が始まる日の二枚地図
最初は直美さんの状態です。親だけ、自分だけ、二枚ともから選べます。
診断結果
確認した地図
置き場所あり
残る役割
今日先にすること
72時間以内の入口
一週間で分ける役割
比較条件にする支援
保存用の骨組み
サービスは、空欄になった役割から比べる

見守り、配食、家事支援、駆けつけ、住宅改修、相談、住み替え。名称が似ていても、できることは違う。最初に「一人暮らしだから見守り」と決めず、二枚地図で空いた役割から候補を探す。
どこで使える?
全国対応の表示だけでなく、市区町村、訪問範囲、離れて暮らす連絡者の地域を確認する。
何をしてくれる?
通知だけ、電話確認、現地訪問、救急要請。緊急時に行うことと行わないことを分ける。
家族以外へ届く?
通知先へ友人や専門職を登録できるか、順番と本人同意を確認する。
鍵はどう預ける?
保管場所、入室条件、本人確認、紛失時、解約時の返却を契約前に読む。
一年でいくら?
初期費用、月額、機器、訪問、取消、更新を同じ期間で合計する。
止める時は?
最低利用期間、休止、解約期限、撤去費、データ削除を申込前に確認する。
候補を比べるときは、この六項目を同じ日の条件で並べる。月額が安くても、必要な地域で駆けつけがなければ空欄は残る。地図のどの役割を任せるのか言葉にできないうちは、漠然とした不安だけで申し込まない。
土曜日、母は「お風呂が怖い日がある」と言った

土曜の午後、直美さんは母の食卓へ二枚の紙を置いた。母の紙には、通院、薬、入浴、買い物。自分の紙には、仕事、住宅ローン、緊急連絡、将来の住まいを書いた。
直美さん「こっちへ引っ越したい?」
母「まだいいわよ。パン屋さんにも自分で行けるもの」
直美さん「いま、一番いやなことは?」
母「お風呂。足が上がらない日は、ちょっと怖い」
直美さんが想像していた答えは、引っ越しだった。母が挙げたのは浴槽だった。月曜日に母の住所を担当する地域包括支援センターへ、最近の三つの変化、入浴で怖い動き、今の家で続けたい生活を伝えることにした。サービス名は、まだ決めなかった。
帰宅後、冷蔵庫のカードから母の番号を乱暴に消さず、役割を書き直した。最初の電話を受ける人、家へ入る方法、支払いの一覧、住まいの希望。元同僚の美咲には「緊急時の最初の電話だけ、受けてもらえる?」と範囲を伝えて尋ねた。返事をもらうまで、名前は書かなかった。
介護への備えは、誰か一人を家族の代わりにすることではない。親の生活を奪わず、自分の仕事や老後も消さず、必要な役割を人・地域・制度・サービスへ少しずつ渡していくことだ。二枚の地図は、その最初の空欄を見つけるためにある。
直美さんは、親の地図と自分の地図を同じ週に並べ、空欄になっている役割から先に埋めることにした。まずは置き場所があるかどうかと、本人に聞けたかどうかを確認し、サービスをどこに頼むかはまだ決めないことにした。
相談先を決めたら、希望する暮らしを一枚にまとめる
介護の相談先や住まいの候補を調べたら、誰に何を頼みたいか、毎月いくらまでなら続けられるかを書き出しておきます。介護・終活・住まいを整理する本は、制度や地域で違いがあることを確認し、自分の準備を進める補助資料として利用してください。
